昭和40年代(1965〜1974年ごろ)の日本理化学工業のダストレスチョーク|昭和12年の先生の頼みから生まれ、黒板の受けで短くなった一本
昭和40年代(1965〜1974年ごろ)の教室にあった日本理化学工業のダストレスチョークを手がかりに、黒板の前で手にした白い棒の記憶を振り返ります。同社の製品ページと社長のnote、広報担当者への取材記事で昭和12年(1937年)の誕生の経緯を確かめ、指に残る粉の感触から今の黒板の使われ方までをたどります。

60代の時間軸
日本理化学工業の社長が書くnoteによると、日用品の問屋から転身した祖父が昭和12年にダストレスチョークを誕生させました。同社の商品企画・広報の担当者は、取材にこう話しています。1937年に大田区で雑貨商として創業し、学校の先生から粉の飛散が少ない高品質のチョークの輸入を頼まれた。それなら自分たちで作ろうと、歯磨き粉にも使われる炭酸カルシウムを原料にして、国内で初めて製造に成功した。
教室では、短くなった欠片を先生が指先でつまんで最後まで使い、新しい一本は箱から日直が出しました。色の線は大事なところにだけ引かれ、試験に出ると言われたところが黄色くなります。
黒板の下の金属の受けには、白と淡い黄色と淡い桃色の棒が転がっていました。先が黒板に当たるとカツカツと乾いた音が教室の後ろまで届き、力を入れすぎると途中でポキリと折れて床へ跳ねます。製品ページは粒子が重く粉が飛散しにくいと説明していますが、それでも指の腹は白くなり、紺の袖口に細い線が残りました。午後の低い日が左の窓から差すと、黒板に残った消し跡の白い弧が浮き上がります。掃除の時間には、窓から腕を出して黒板消しをはたく音がして、舌の奥に少し粉っぽさが残りました。
原料は変わりました。1967年に北海道美唄市にも工場を開いた同社は、2005年からホタテの貝殻をチョークに使っています。汚れと匂いのある貝殻を洗い、5ミクロン以下の微粉末にして配合すると、書き味が滑らかになって発色も強度も増したそうです。昭和35年からは知的障がいのある社員の雇用を始め、noteの著者紹介では全社員96名中69名。製造はほとんどが手作業だと取材記事の写真説明にあります。いまの教室の正面には電子黒板やプロジェクターも入り、社長はnoteで、教室の後ろの黒板を生徒に思いきり使ってほしいと書いています。YouTubeで板書の音が集中用のBGMになっているのを見つけた、という話も同じ記事にあります。
黒板の記憶は、学校の建物や担任の癖でだいぶ変わります。赤で下線を引くのが好きな先生、短くなるまで折らずに使う先生、休み時間に絵を描いて叱られた同級生。あなたの教室で、短くなったチョークは黒板の受けのどのあたりにたまっていましたか?
日本理化学工業のダストレスチョークを思い出す三つの手がかり
- 日本理化学工業のダストレスチョークにまつわる場所を一つ思い浮かべます。家、学校、駅前、友だちの家など、名前が出てこなくても構いません。
- そこで一緒にいた人と、音・匂い・手触りのどれかを書き添えます。曖昧なところは「たぶん」「覚えていない」で大丈夫です。
- いまの自分へ一言だけ残します。正解を書く欄はありません。次に誰かとその話をするときの入口になります。
出典と編集方針
このページは、公開資料で時代背景を確認しつつ、特定の世代の体験を一つに決めつけない読みものとして編集しています。地域や家庭による違いがあります。あなたの記憶と違う箇所は、間違い探しではなく会話のきっかけとして扱ってください。
- 日本理化学工業「ダストレスチョーク」製品ページ
- 日本理化学工業 社長大山の日々の記録「ダストレスチョークをつくり続け87年」
- かわさきからエコ発信!脱炭素アクションみぞのくち「人にも環境にもやさしいものづくりを続ける日本理化学工業」(2023年5月23日)
- 編集確認日:2026-11-01。出来事の事実確認と、個人の記憶・感想は分けて記載しています。