あアノコロ記憶のタイムマシン
70代 街・暮らし

昭和27年(1952年)ごろの愛媛県青果連のポンジュース|酒屋の棚から下ろした、みかん色の小さな瓶

名付け親は当時の愛媛県知事で、「ニッポン」の「ポン」を取った名前でした。昭和27年〜昭和31年(1952〜1956年ごろ)の愛媛県青果連のポンジュースを、えひめ飲料の沿革と「ポンジュースの歴史」で発売の年月と中身の移り変わりを、ニッポン旅マガジンの記事で最初の瓶と売っていた店を確かめながら書きます。

昭和27年〜昭和31年(1952〜1956年ごろ)の愛媛県青果連のポンジュースを再現したイメージ。格子戸から光が入る小さな店の古い木の台に、ラベルのない透明な小瓶に入ったみかん色のジュースが立ち、横に葉の付いた温州みかんが三つと小さなコップが置かれ、奥に古い漆喰の壁が見える。
昭和27年〜昭和31年(1952〜1956年ごろ)の愛媛県青果連のポンジュースを再現したイメージ。格子戸から光が入る小さな店の古い木の台に、ラベルのない透明な小瓶に入ったみかん色のジュースが立ち、横に葉の付いた温州みかんが三つと小さなコップが置かれ、奥に古い漆喰の壁が見える。(イメージ)

70代の時間軸

えひめ飲料の「ポンジュースの歴史」は、昭和26年(1951年)の渡米から始まります。前身の愛媛県青果連の会長、桐野忠兵衛がアメリカのジュース工場を見学し、オレンジやグレープフルーツが次々に缶詰や飲料になっていくのを見て、みかんも飲み物にできると考えました。帰国して工場づくりに取りかかり、沿革によれば昭和27年12月(1952年)に三津工場が完成して、ポンジュースが発売されます。当時のものは果汁100%ではありませんでした。その頃は果汁の少ない飲料もジュースと呼んでいた、と同社は注を付けています。翌昭和28年には、ローマ字の表記が「PON」から「POM」に変わりました。

ニッポン旅マガジンの記事によると、最初の一本は温州みかんを使った180ml瓶入りで、果汁は20%。ジュースを売っていたのは酒屋でした。祭りや来客の日に買ってくる、少し改まった飲み物として、瓶のまま食卓に置かれました。

酒屋の土間は、夏でもひんやりしていました。一升瓶の並んだ棚の下の段に、小さな瓶が木箱ごと置かれている。店の人が一本取って渡してくれると、手のひらにずしりと重く、ガラスの肌がつるりと冷たい。栓を抜くと、ポンと乾いた音がして、甘酸っぱい匂いが鼻先に広がりました。日の当たる店先にかざすと、瓶の中のみかん色が光を通して、カウンターの木目にうっすら色の影を落とす。飲み終えた瓶は店に返すもので、空になった軽さを確かめながら、もう一度土間へ戻りました。

その後、えひめ飲料の歴史には、昭和31年の『ポン濃厚ジュースオレンジ』、昭和34年に甲子園などの野球場で売られたポリエチレン製ボール型の『ポンボールジュース』が並び、昭和44年(1969年)に果汁100%の『ポンジュース』が登場します。昭和48年には、255g缶だけを扱う自動販売機も置かれました。いまは800mlのペットボトルが冷蔵庫の扉のポケットに収まります。

名前の由来には、知事がフランスで暮らしたことがあり、あいさつの「ボンジュール」の響きにも似ているから、という別の説もあると、えひめ飲料は紹介しています。愛媛に近い町では工場の噂といっしょに瓶を覚え、遠い町では、何年も経ってから缶やパックで初めて名前を知った人もいました。最初の瓶を知る世代と、果汁100%になってから飲んだ世代とでは、同じ名前でも舌に残る味が違います。あなたが最初に飲んだポンジュースは、酒屋の小さな瓶でしたか、野球場で売られた丸い容器でしたか、それとも自動販売機の缶でしたか?

愛媛県青果連のポンジュースを思い出す三つの手がかり

  1. 愛媛県青果連のポンジュースにまつわる場所を一つ思い浮かべます。家、学校、駅前、友だちの家など、名前が出てこなくても構いません。
  2. そこで一緒にいた人と、音・匂い・手触りのどれかを書き添えます。曖昧なところは「たぶん」「覚えていない」で大丈夫です。
  3. いまの自分へ一言だけ残します。正解を書く欄はありません。次に誰かとその話をするときの入口になります。

出典と編集方針

このページは、公開資料で時代背景を確認しつつ、特定の世代の体験を一つに決めつけない読みものとして編集しています。地域や家庭による違いがあります。あなたの記憶と違う箇所は、間違い探しではなく会話のきっかけとして扱ってください。