あアノコロ記憶のタイムマシン
70代 街・暮らし

昭和34年(1959年)ごろの日産のダットサン・ブルーバード|同じ料金で五人目が乗れるようになったタクシーの後ろの席

後ろの座席の幅が40mm広がり、乗れる人数が一人増えた。その秋の小さな変更から、この車をたどります。昭和34年〜昭和38年(1959〜1963年ごろ)の日産のダットサン・ブルーバードについて、日産ヘリテージコレクションの収蔵車の解説で、愛称が生まれた月と寸法、乗車定員の変化を確かめました。

昭和34年〜昭和38年(1959〜1963年ごろ)の日産のダットサン・ブルーバードを再現したイメージ。小さな木造の駅舎の前の砂利の広場に、くすんだ紺色の丸みのある四ドアの小型セダンが後ろ斜めから見え、細いクロームのバンパーと涙形の小さな尾灯があり、夕方の長い影が伸びている。
昭和34年〜昭和38年(1959〜1963年ごろ)の日産のダットサン・ブルーバードを再現したイメージ。小さな木造の駅舎の前の砂利の広場に、くすんだ紺色の丸みのある四ドアの小型セダンが後ろ斜めから見え、細いクロームのバンパーと涙形の小さな尾灯があり、夕方の長い影が伸びている。(イメージ)

70代の時間軸

日産のヘリテージコレクションの解説によると、日産の車に「ブルーバード」の愛称が生まれたのは1959年(昭和34年)8月です。初代は310型で、正式な名前は「ダットサン・ブルーバード」。エンジンは34馬力の1000ccと43馬力の1200ccがあり、どちらも直列4気筒OHVでした。形を手がけたのは造形課の初代課長、佐藤章蔵です。すっきりとした姿は好評で、独特の尾灯の形から「柿の種」とも呼ばれました。前輪の独立懸架による乗り心地も評判になったと、解説は書いています。収蔵車の1200は全長3,860mm、車両重量870kgです。

デビューした当初の乗車定員は4名でした。同じ年の10月、後ろの座席の幅が40mm広げられて5名が乗れるようになり、タクシーの客からは、同じ料金で5人乗れることが歓迎されたといいます。

夕方の駅前では、タクシーが砂利の上に並んで客を待っていました。運転手が後ろのドアを開けると、座席のビニールが西日を吸ってほんのり温かく、乗りこむと車内には煙草とゴムの混じった匂いがこもっている。大人が四人で座れば、膝と膝が当たり、子どもは誰かの膝の上か、真ん中の狭いところへ押しこまれました。ドアを閉めるとバタンと薄い鉄の音がして、エンジンがかかると、床から細かな震えが足の裏へ伝わってくる。窓のハンドルを回して少しだけ開けると、砂ぼこりと夕飯の支度の煙が流れこみました。家の前で降りて見送ると、走り去る車の後ろで、あの小さな尾灯が、角を曲がるまで赤く光っていました。

1960年(昭和35年)7月には、日本初の「エステートワゴン」が加わります。翌1961年の変更で型式は312型となり、前のグリルやメーターパネルが改められ、「柿の種」の尾灯も大きな新しい形に替わりました。いまヘリテージコレクションに並ぶ車は、走るためより、見て思い出すために磨かれています。

柿の種の尾灯をはっきり覚えている人は、1961年の変更より前の車を見ていたことになります。同じブルーバードのタクシーでも、少しあとに乗った人の記憶には、大きく四角くなった尾灯のほうが残っているかもしれません。駅から遠い家では、タクシーは病院の帰りや法事の日にだけ呼ぶ特別な乗り物で、近所の人に見られるのが少し照れくさかったという話も聞きます。あなたが乗ったブルーバードのタクシーで、後ろの座席には誰と並び、誰が真ん中に座りましたか?

日産のダットサン・ブルーバードを思い出す三つの手がかり

  1. 日産のダットサン・ブルーバードにまつわる場所を一つ思い浮かべます。家、学校、駅前、友だちの家など、名前が出てこなくても構いません。
  2. そこで一緒にいた人と、音・匂い・手触りのどれかを書き添えます。曖昧なところは「たぶん」「覚えていない」で大丈夫です。
  3. いまの自分へ一言だけ残します。正解を書く欄はありません。次に誰かとその話をするときの入口になります。

出典と編集方針

このページは、公開資料で時代背景を確認しつつ、特定の世代の体験を一つに決めつけない読みものとして編集しています。地域や家庭による違いがあります。あなたの記憶と違う箇所は、間違い探しではなく会話のきっかけとして扱ってください。