あアノコロ記憶のタイムマシン
60代 街・暮らし

昭和46年(1971年)ごろの丸美屋の麻婆豆腐の素|団地へ配られた試供品から始まった台所の赤茶色

昭和46年〜昭和50年(1971〜1975年ごろ)の丸美屋の麻婆豆腐の素を手がかりに、聞き慣れない料理が食卓に来たころを振り返ります。丸美屋の沿革と日本食糧新聞、プレジデントオンラインの取材記事で発売の年月と当初の売れ行きを確かめ、フライパンの湯気や各家庭の足し方までをたどります。

昭和46年〜昭和50年(1971〜1975年ごろ)の丸美屋の麻婆豆腐の素を再現したイメージ。夕方の蛍光灯に照らされた家庭の台所のガスコンロで、黒いフライパンの白い豆腐とひき肉につやのある赤茶色のたれがからみ、刻みねぎと木べらが添えられて湯気が立ち、そばに無地の小袋の裏側と白いご飯の茶碗がある。
昭和46年〜昭和50年(1971〜1975年ごろ)の丸美屋の麻婆豆腐の素を再現したイメージ。夕方の蛍光灯に照らされた家庭の台所のガスコンロで、黒いフライパンの白い豆腐とひき肉につやのある赤茶色のたれがからみ、刻みねぎと木べらが添えられて湯気が立ち、そばに無地の小袋の裏側と白いご飯の茶碗がある。(イメージ)

60代の時間軸

丸美屋の沿革は、1971年6月の欄に「麻婆豆腐の素」発売と記します。日本食糧新聞の55周年の記事によれば発売日は6月6日で、初代は袋入り、ひき肉入りでトロミ粉付き、3人前×2回分という設計でした。プレジデントオンラインの取材では、当時の定価は120円。豆腐が1丁40円のころで、麻婆豆腐は町の中華料理店にもない未知のメニューだったといいます。

売れ行きの話は記事で少し違います。日本食糧新聞は「大ヒット」と書き、丸美屋の担当者はプレジデントの取材に「発売当初は苦戦しました」と答えています。翌年からのテレビCMで関東では名前が知られても、西日本では売れなかったと聞いているそうです。開発スタッフは首都圏の団地を1戸ずつ訪ね、無料サンプルを手渡しました。転機は2年後のオイルショックで、買いだめに走る客で店の在庫がはけ、その中でこの袋も全国の台所へ渡っていきました。

夕方の台所で、まな板の上の豆腐を賽の目に切ります。袋の口を切ってフライパンに絞ると、しょうがとにんにくの匂いがまず立ち、火にかけた赤茶色のたれがふつふつと小さな泡を上げました。崩さないように木べらをそっと底へ入れるのですが、角はどうしても欠けます。最後に水で溶いたトロミ粉を回し入れると、さらさらしていたたれが急に重くなり、へらの跡がしばらく残りました。蛍光灯の下で湯気が白く、窓ガラスは曇っています。先に並べた茶碗のご飯へたれを落とすと、白い粒の間に赤茶色がじわりと染みました。熱い豆腐を急いで口へ入れて、水の入ったコップに手を伸ばす子どももいます。

いま店に並ぶ箱は、内容量162gで希望小売価格275円(税込)。2026年の55周年パッケージの裏面には、作り方の動画へつながるQRコードが付きました。ひき肉入り、トロミ粉付き、3人前×2回分という設計は、発売のころと同じだと記事にあります。

同じ袋でも仕上がりは家ごとに分かれました。ねぎを山のように刻む家、ひき肉を増やす家、辛さが足りないと唐辛子を振る父親。あなたの家の麻婆豆腐は、食卓に出るまでに何を足していましたか?

丸美屋の麻婆豆腐の素を思い出す三つの手がかり

  1. 丸美屋の麻婆豆腐の素にまつわる場所を一つ思い浮かべます。家、学校、駅前、友だちの家など、名前が出てこなくても構いません。
  2. そこで一緒にいた人と、音・匂い・手触りのどれかを書き添えます。曖昧なところは「たぶん」「覚えていない」で大丈夫です。
  3. いまの自分へ一言だけ残します。正解を書く欄はありません。次に誰かとその話をするときの入口になります。

出典と編集方針

このページは、公開資料で時代背景を確認しつつ、特定の世代の体験を一つに決めつけない読みものとして編集しています。地域や家庭による違いがあります。あなたの記憶と違う箇所は、間違い探しではなく会話のきっかけとして扱ってください。