あアノコロ記憶のタイムマシン
50代 街・暮らし

昭和62年(1987年)ごろのアサヒビールのスーパードライ|瓶が主流の酒屋の棚で銀色の缶が目を引いた夏

瓶のラベルをもとにした白やベージュの多かった売り場へ、銀色の缶が入ってきました。昭和62年〜平成3年(1987〜1991年ごろ)のアサヒビールのスーパードライについて、製品サイトの年表と文春オンラインの記事、開発の話を聞いたマイナビニュースの取材で、発売日と色の理由が確かめられます。

昭和62年〜平成3年(1987〜1991年ごろ)のアサヒビールのスーパードライを再現したイメージ。夕暮れの開いた窓辺の低い木のテーブルに、水滴のついた無地の銀色の缶と泡の立つ背の高いグラス、枝豆の小皿が並び、奥に蚊取り線香の台がぼんやり見える。
昭和62年〜平成3年(1987〜1991年ごろ)のアサヒビールのスーパードライを再現したイメージ。夕暮れの開いた窓辺の低い木のテーブルに、水滴のついた無地の銀色の缶と泡の立つ背の高いグラス、枝豆の小皿が並び、奥に蚊取り線香の台がぼんやり見える。(イメージ)

50代の時間軸

1987年3月17日、スーパードライはまず首都圏限定で売り出されたと文春オンラインは書いています。苦みの強いものが多かった当時のビールに対し、発酵度を高く設定して辛口にし、キレに徹した作りです。アサヒビールの消費者嗜好調査からは、肉など脂分の多い食事に合うビールを若い世代が求めていることが見えていました。86年2月の新「アサヒ生ビール」の好評を受け、20代〜30代に狙いを絞って開発が進みます。同社の製品サイトの年表は、1987年の欄を「世界初の辛口生ビールの誕生」と記しています。

テレビでは国際ジャーナリストの落合信彦が「ドライ・アンド・ハード」の役を担いました。出演を受けたあとの落合は、宣伝課長に毎月電話をかけて売り上げを確認していたそうです。

酒屋の棚でその銀色は浮いていました。担当者の話では、当時の主流は瓶で、缶の色も瓶のラベルをもとにした白やベージュが多かった。二十歳を過ぎて勤めに出て、最初の夏に自分の金で一本買って帰る。アパートの窓を開け、低い机に枝豆の皿を出す。冷蔵庫から出したばかりの缶はすぐに曇り、水滴が指を伝って机に輪を作りました。ふたを起こす音が狭い部屋で思ったより大きく響き、グラスに注ぐと泡がしゅわしゅわと縁まで上がってくる。蚊取り線香の煙が網戸のほうへ流れ、下の道を行く自転車のブレーキが聞こえます。空になった缶はアルミの軽さで、片手で持ち上げると中で残りの一滴が小さく鳴りました。

マイナビニュースによると、発売の年の売上箱数は当時の新商品として過去最高。その後1993年の鮮度向上活動を経て、製品サイトは1987年の発売以来2度目となる中味の処方変更を伝えています。いまの缶はマットとメタリックの二つのシルバーを組み合わせ、裏面の辛口カーブは示温インキで、よく冷やすと色が浮かび上がる作り。銀色はもう「ビールらしくない」と言われる色でなくなりました。

首都圏から売り出されたので、関東の外に住んでいれば店に届くまで間がありました。職場の宴席には瓶の列しかなく、出張先の旅館の冷蔵庫で初めて出会ったという話もあります。スーパードライの銀色の缶をはじめて見たのは、どの酒屋の棚か、どの宴席のテーブルでしたか?

アサヒビールのスーパードライを思い出す三つの手がかり

  1. アサヒビールのスーパードライにまつわる場所を一つ思い浮かべます。家、学校、駅前、友だちの家など、名前が出てこなくても構いません。
  2. そこで一緒にいた人と、音・匂い・手触りのどれかを書き添えます。曖昧なところは「たぶん」「覚えていない」で大丈夫です。
  3. いまの自分へ一言だけ残します。正解を書く欄はありません。次に誰かとその話をするときの入口になります。

出典と編集方針

このページは、公開資料で時代背景を確認しつつ、特定の世代の体験を一つに決めつけない読みものとして編集しています。地域や家庭による違いがあります。あなたの記憶と違う箇所は、間違い探しではなく会話のきっかけとして扱ってください。